さいとう正美プロフィール

 

●昭和29年12月19日 石巻市蛇田生まれ

近影、幸枝夫人とツーショット


●宮城県石巻工業高等学校 土木科卒
●昭和52年 日本大学 工学部 建築学科卒
●昭和59年3月〜昭和61年12月・・・・石巻市議会議員
●昭和62年4月〜平成15年4月 ・・・・ 宮城県議会議員(4期16年)
●平成15年11月〜平成21年8月・・・・自由民主党宮城県第五選挙区支部長


役職

●自由民主党全国青年議員連盟副会長
●自由民主党宮城県連副会長・政調会長
●宮城県議会総務企画委員長
●自由民主党県民会議会派会長


現職

●自由民主党宮城県連顧問
宮城県学校剣道連盟顧問   ●石巻剣道連盟会長 
●宮城県ボート協会顧問    ●宮城県ラグビー協会参与
●明るい社会づくり運動石巻地区推進協議会会長
●日本空手協会石巻地区本部顧問
●宮城県建築士会顧問     ●宮城県洋菓子協会顧問
●石巻めぐみ野ライオンズクラブ会員
●宮城県クリーニング生活衛生同業組合顧問
●宮城県産業廃棄物協会石巻支部顧問
●日本戸山流居合道宮城県連盟顧問
●宮城県塗装業組合連合会石巻支部顧問


その他

●資 格:一級建築士・インテリアプランナー
●特 技:剣道五段(六段に挑戦中)
●家 族:妻・一男一女・孫一人・母
●趣 味:剣道・写真・カラオケ・五行歌・シャンソン
●血液型:O型、射手座
●座右の銘:己を忘れ他を利するは慈悲の極みなり


 

BIOGRAPHY


幼少期~学生時代


齋藤正美は、1954年(昭和29年)12月19日、牡鹿郡蛇田村(現・石巻市)に、農業を営む両親のもと二人兄弟の長男として生まれた。折しも昭和の大合併が進む中、蛇田村も翌年1月1日に石巻市との合併を控えていた。まさに新時代の光さす頃の誕生であった。

田畑を駆け巡り元気に育った少年は、やがて「強いものへのあこがれ」を抱くようになる。男子なら一度は、いや、永遠にもつであろう、この思い。少年・正美のそんな思いを満たしてくれたのは「剣道」であった。石巻市立蛇田中学校のクラブ活動、真新しい竹刀と防具に身をつつみ、「我が意を得たり」とばかりに、一心不乱に素振りに打ち込む。そして、正美はこの剣道を通じ、一つ目の運命的な出会いをする。剣道部顧問、鈴木清由先生(故人)。後に後援会長を務めて頂くことになる。

中学校を卒業し、宮城県石巻工業高校に入学。やはりクラブ活動は剣道。この頃には,将来の目標も見えてきた。そして、迎えた大学受験。将来は建築士になりたい、でも、好きな剣道にも打ち込みたい。正美は迷わず剣道の盛んな日本大学を受験。みごと合格。思いかなったバラ色のキャンパスライフを送る。そして、教科書の裏の氏名欄にはいつもこう書き込んだ。
 
<日本大学工学部 体育会 剣道部 齋藤正美>
 
続けて申し訳程度に、カッコ書きで「建築学科」と書いた。
 
昭和52年、大学を卒業すると、仙台市の横山芳夫建築設計管理事務所に就職。多くの仲間に囲まれながら、一級建築士を目指した。
 

青年期、そして政治を志す


昭和57年、この年は、正美にとって輝かしく、そして、めまぐるしい人生のスタートとなった。
 
ある日、正美は病気で入院している剣道の先輩を見舞う。そこには、ふたつ目の運命的な出会いが待っていた。隣の患者を見舞う女性。後に正美の生涯の伴侶となる、幸枝夫人であった。二人はこの年、ゴールイン。そして、秋には、念願の一級建築士に合格。翌58年、正美は郷里・石巻に戻り独立することを決意。長年、お世話になった会社を後にする。しかし、ここで正美の人生は本人の予想し得ない方向へと大きく変わってゆく。

石巻は喘いでいた。地場産業である漁業の不振、慢性的な景気の低迷、あらゆる面で日に日に開いていく仙台との格差。昭和59年、石巻市議選を控えたこの年、明日の石巻を憂う人々は、この人一倍元気の良い若者に思いを託した。多くの熱意にほだされ、正美は若干29歳にして政治家への転身を決意。初挑戦にして見事石巻市議会議員に当選した。

元々、政治家としての素質があった正美にとって、市議会議員という仕事には、いくらでも活躍の場があった。その中でも特に正美の胸に深く刻まれた出来事、それは石巻専修大学の誘致運動であった。
 
街を二分した論争へと発展した大学誘致に、正美は当時の(社)石巻青年会議所・菅原康平理事長(後に石巻市長)とともに、地を這うような運動を展開。結果、石巻市、百年の大計を成し遂げる(平成元年に開学)。
 
市議として、まさに順風満帆なスタート。しかし、1期4年を全うすることはなかった。正美を支持する多くの人々は、彼の精力的な活動を見るにつけ、「この若者を、もっと大きな舞台で活躍させたい、もっと大きな仕事をさせたい」そう願うようになった。
 

宮城県議選へ出馬~変革の旗手として活躍

 

もっと大きな仕事…それは宮城県議会議員への挑戦に他ならない。「彼なら出来る」周囲の期待は日に日に大きくなるばかり。一方で、正美自身には戸惑いもあった。石巻市議一期目、しかも任期半ば。市議としての責任を考えれば到底転身は考えられない。しかし、彼を支援する人々は根気強く説得を繰り返した。そして正美は決断する。「石巻にとって、どちらが良いか。それは、我が身を削ってでも県政というフィールドで戦うことだ」と。迎えた昭和62年、春。統一地方選挙。宮城県議会議員選挙に出馬。過去、幾多に渡って熾烈な戦いが繰り広げられてきたこの選挙に、またしても初挑戦ながら当選した。

以後、4期16年。正美は周囲の期待を遥かに上回る数々の目覚ましい実績を上げ続けた。
 
一般質問によって明確化された、石巻市の第二県都としての位置付け。明治の野蒜築港以来の悲願、日和港を核とした物流拠点都市・石巻の形成。仙台と石巻を1時間で結ぶ高規格道路・三陸道の開通。風越トンネル開通による圏域交通ネットワークの整備。友人の幼い子供の死に直面したことから必要性を訴え続けてきた県立こども病院の設置。そして、生涯の思い出となるであろう、慶長使節船サン・ファン・ヴァウティスタの復元。
 
正美は一日も休むことなく、石巻圏域、そして県政の為に走り続けてきた。既成概念にとらわれず、常に新しい施策を考え出し行動に移していく様は、まさに「変革の旗手」であった。4期目を迎える頃には県政の重鎮との呼び声も高く、将来の議長候補として頂点の働きが期待されていた。
 
しかし、この時、正美は密かに思い悩んでいた。それは、地方自治体と国との壁。得意とする農政や漁業問題ですら、解決に導けない事があった。
 
さらには、衰退する中心市街地や人口減少、それに起因する地方経済の悪化など、もはや一地方議員が解決するには限界が見えていた。追い打ちをかけるように、郷里・石巻を含む宮城5区は民主党議員が選出されており、益々国との距離は遠ざかる一方であった。
 
「このままでは地域が、国が疲弊してしまう」
 
そして、考え抜いた結論。
 
地方を良くするためには、国のシステムを変えないとだめだ!
 
正美は、次なるステージ、国政へチャレンジすることを決意した。
 
 

国政への挑戦!


自由民主党・宮城県第五選挙区支部長となった正美は、平成15年、満を持して衆議院議員選挙に出馬した。しかし、結果は惜敗。続く、平成17年も惜敗。地域を、日本を良くしたいと願う思いとは裏腹に、勝利の女神は過去2回、正美に微笑むことはなかった。だが、彼はこう考えた。なぜそうであったのかを。それは「まだまだ自分の努力が足りないからだ」と。
 
この地域が国政の光から遠ざかること早10数年。それは地方が加速度を増して衰退していくことにつながった。さらに、国政にとっては農業・漁業など第一次産業のエキスパートを得られず、生産者の声を正しく聞き取れない環境となった。こうした、国にとって地方にとって泥沼の状況は、正美を3度目の挑戦へと駆り立てた。

幼い頃から剣道で鍛え上げられた根性と体力で、今日も正美は宮城5区内を走り回っている。一人でも多くの住民と語り合うことで、地域の今を知る。災害現場には自ら足を踏み入れ復旧作業に助力を注ぐ。時には、若者のイベントに参加して設営を手伝ったりもする。丁寧に、確実に、一歩一歩を踏みしめながら。
 
「地方の声を、必ずや国政に反映させる!」
 
それは、地方議員として20年間汗をかいてきた正美だからこそ出来るのである。

先般、正美の後援会集会のため来石した自由民主党・選挙対策委員長の古賀誠先生は、集まった支持者を前にこう語った。「衆議院小選挙区で3度目の挑戦をさせるのは、自民党としては異例のこと。それだけ党として彼に期待するところは大きい。私もぜひさいとう正美君と一緒に働きたい。そのためにも、ご支援頂く方々が一致団結して彼を国政の場へ押し上げて欲しい」
 
もちろん、集まった支持者も思いは同じであった。
 
そうした多くの人々の熱い声援を受け、正美は思いを新たに情熱の炎をたぎらせるのであった。
 
「このままでは、地域が、日本が疲弊してしまう」
 
しかし、残念ながら、この戦いでも毎年の恒例行事ように変わり続ける総理総裁、不安定な自民党政権に対する国民の溜まりに溜まった不満が噴出、これまでにないほどの逆風にさらされ、三度目の挑戦も勝利をたぐり寄せることが出来なかった。
 

県政から、郷土を復興へ

 
平成23年3月11日午後2時46分。
東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した大津波によって、石巻をはじめ太平洋沿岸部は壊滅的な被害を受け、多くの尊い命を喪いました。まさに未曾有の事態。一瞬にして私達の愛する郷土の姿が視界から消えさりました。その後に現れたのはまさに地獄のような日々。正美は、寝食も忘れて被災された方々のために動き出しました。朝も早くからおにぎりを炊き出し、行政の目が行き届かぬ避難場所や施設に届け続けました。外部との連絡がとれるようになると、遠く北陸や関西の医療機関の方々が正美の元に駆けつけてくれました。さらに、阪神大震災での活動経験をもつNPOの方々も来てくれ、正美の事務所はさながらボランティアセンターのようになり、自らが陣頭指揮をとり、獅子奮迅の働きをしました。時折、被災地訪問といっては、一向に対策をとらない政治家という職業に疑問すら感じつつ。そうして活動を続けてゆくうちに、正美は、このまま故郷の復興を目指す友人達と共にNPOを設立し、ボランティア活動に身を費やしていくつもりでした。
しかし、ありがたいことに多くの方々から政治家としての再起をうながされました、ステージを変えてでも人脈と行動力を活かして復興に立ち向かって欲しい…と。
正美は考えに考え抜きました。
「今までは国政から日本を変え、地方を生き生きとさせることを考えてきた。だが、いまはそんな悠長なことを言ってはいられない。とにかく時間がないのだ。故郷の復興のためには自分が今すぐ動かなければだめだ。」
そう思い立ったら決意は固い。例えそれが今まで共に支え合ってきた仲間と袂を分かつことになろうとも……。一日も早く郷土の姿を取り戻す為にも、正美は、今も走る、走る!